2013年 06月 02日

「山男(1957年)」

「山男(1957年)」_c0266710_13404236.jpg

またしても衝動買い(汗)。
東京・神保町にある古本屋「悠久堂書店」で
山の版画家として知られる畦地梅太郎の小作品を購入。





自分のことながら、性懲りも無く衝動買いしてしまうのは何故だろう?

もう飾る場所もないし、既に結構な数の作品を持っているにも関わらず・・・。
そんなことを思いながら、作品集の解説を読んでいると興味深い文章が(↓)。


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「山男」と向き合う時  串田孫一 

(畦地さんは)初期には山の風景も、油絵または版画でいろいろ作っていたが、
山歩きを続けるうちに、自分を表現するのには、風景では心もとなくなり、人物に移った。
山の風景は美しくも幽遠でもあるが、それをそのまま絵にしても、記録であって芸術とは違う。
『山男』について、「あの中にあるもの、裏にあるものはわたしなんです。『山男』はわたしなんです。
『山男』を通じて自分の気持ちをだしてゆくということなんです。」
と畦地さんは言われた。

この確信と誇りを私は実に羨しく思った。そしてこの言葉に続けて、山男のモデルはわたしなんです、
とは言われずに「モデルはないんです」と付け足して言われたことが忘れられない。

これによって、「山男」が私達にとって何であるかという次の問いに移る訳だが、
さんざん考えた末、これは私が書く可き事柄ではないことに気が付いた。
詰り「山男」は、それと素直に向き合えるすべての方々の内部に宿って、それぞれに作用している筈で、
その貴い領域にまで私が踏み込んで行くことは許されない。



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改めて購入した「山男」の木版画を見てみる。

一切の余計な装飾を排したディテール。
温和な表情に反して、重厚なタッチの赤。

単純に「カワイイ」だけでは片付けられない。

それは畦地梅太郎自身の感情なのだろうか?
それとも自分の感情が投影された作用なのだろうか?



「山男(1957年)」_c0266710_16343145.jpg

廊下に飾ってみた。
なかなか良い雰囲気。

「そんなことより遊んで。」
とはJOHNNYの弁(笑)。

by ishida1011 | 2013-06-02 15:07 | 畦地梅太郎


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